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生まれながらに主体的、な訳がない

2010-02-19

Tag : 屈託 ゆとり

仲正昌樹「「不自由」論
 -「何でも自己決定」の限界」(ちくま新書)

「何でも自己決定」の限界
最近ちくま新書の登場が多いのは、
巻末の紹介文から
予約する本を見繕ってるせいです。
まだもう少し断続的に続きます。たぶん。

心理学寄りの社会学の本かと思いながら借りたら
政治思想寄りの哲学的な本でした。
題名だけでなく本文も
やたらカギカッコが多いです。
借り物をはっきりさせるためでしょうか。
借りてきた言葉にとても敏感な内容でした。

プロローグからすでに面白い。
今回は引用が相当多くなります。
気になった文章を携帯に打ち込んでて、
乗り継ぎ駅で降り損ねたりしました。
テーマというか問題意識は
近代的な「自由な体」の論理に内在する矛盾(p.8)
なんだろうと思います。
受け手として、当時から
「自ら学び、自ら考える教育」(p.9)
とは随分と矛盾したものだと思ってました。
この先生も同じこと感じてたようですが、
その後の、感情的にならない
掘り下げ方がすごいです。
ゆとり教育」論議に象徴されるように、我々の社会では、「基準となる状態」をはっきりさせないまま、「体性」や「自立性」、「自己決定」などについて語られることがあまりにも多い。(p.13)
しかしながら、それよりも深いレベルの問題として、先に述べたように、「自由な人間としての体性」なるものが、各人の内に「自然=自発的に」生じてくるという西欧近代を支えてきた「神話」に内在する矛盾がある、と筆者は考えている。(p.15)
体性を育てる、というのも矛盾ですが、
自然に体性をもてるようになる、というのも神話だろうと。
感覚としてはよく解るのですが、
言葉にするとまやかしのような印象になります。
そこをかなりクリアに切り取ってると思います。
現在、哲学や社会学などでしきりと言われている「ポスト・モダン」状況とは、そうした「自由な体間の普遍的合意」が綻びを見せ、実はフィクションであったことが、徐々に露呈されつつある状態であると言うことができる。(p.16)
今までは、とかく、「日本はまだ完全に近代化されていないので、“体性”を強制されたら困ってしまう若者が多いのだ」と説明されることが多かったが、いつまでたっても、典型的に「体的な若者」なるものが社会の多数派になりそうにない。それどころか、自分の人生をどうしていいか分からない中年や老人が増加しているように見える。(p.16)
体がフィクションと感じるのは、
もともと実感のうすい日本人には
そう難しくない気がします。
西欧文化の中にいてそれに気づくには
「近現代」を過去のものにしつくす位の
莫大なエネルギーが必要なんでしょうね。

ハンナ・アーレントという人が、
古くはギリシャのポリスで成立した考え方が、
近代の「人間性」ひいては「ナチズム」の
考え方の立脚点の発祥になってる、
というようなことを考えた、
らしいです。
人間の生活の動物的な部分を、すべて私的領域の闇の中に押し込め、隠してしまうことで、市民は他の人々の前で「人間らしさ」を演じることができる。「私的領域」を犠牲にした「人間らしさ」のお芝居=活動を通して、我々の「人間性」が培われてきた、というのがアーレントの「人間性」論の中心的テーマである。(P.48)
アーレントは、「人間性」なるものが予め実体的に決まっているかのような考え方を拒絶する。多元的な人々が相互に「語り合い」を続け、一つの「本性」へと一義的に収斂していくことがないのが、古代ギリシアのポリスで生まれてきた「人間性」である。(p.56)

その話がいきなり、
ジャック・デリダが目の敵にしてきた、
 近代理性・教養・過去の知識や著作物によって
 すでに私たちの考えが支配されていること
(原語が解りませんがそれを音声中心義というらしいです)
の、話にすっとんでいきます。
現代思想でよく耳にする「音声中心義」批判を、かなり簡略化して説明すれば、歴史的・文化的・言語的に制度化されてきた「エクリチュール」が、あたかも「生き生きしたパロール」であるかのごとく現前化し、我々を拘束している、という事実を暴き出すことである。もう少し分かりやすく言えば、無意識的に他人から聞いたり、本で読んだり、メディアから情報として取り込み、“心”の中に「書き込まれてしまったもの」(エクリチュール)が、いつの間にか自分の「生きた言葉」に化けてしまうことを問題にしているわけである。なお、デリダが「エクリチュール」として問題にしているのは、活字やそれに類する文字や記号として書かれたものだけでなく、我々の思考を規定している、制度化された意味の体系全般である。(pp.101-102)
我々は、言語を学び始めた時点から、そうしたことをやっているわけであるから、エクリチュールの支配から逃れることはできない。にもかかわらず、「生きた言葉」や「生きた体験」の内に、真理を見い出そうとしてきた西欧人の虚構を、デリダは音声中心主義と呼んでいる。(p.103)
一般的に、西欧近代のエクリチュールに汚染されている「知識人」というのは、「書物に書かれたのではない生の現実」に対する憧れを、(書物の影響を通して)抱いていることが多い。法律学者は「実務」や「実定法」に、経済学者は「生きた経済」に、政治学者は「政治の現場」に対してコンプレックスを抱いている。実際には、エクリチュールとしてしか意味をなさない「現・実」という言葉に引かれているだけなのだが、ご当人は、パロールに触れたつもりになっているので、なかなか目を覚まさない。(p.104)
これまで見てきたように西欧世界においては、古典的エクリチュールの内に「フマニタス」の原型を発見しようとした古代・中世人も、エクリチュールに媒介されなあ人間「本性=自然nature」を(近代的エクリチュールの内に)志向する近代人も、共に「人間」をめぐる「大いなるエクリチュール=物語」の内に囚われ続けてきた。だとすると、近代において「ヒューマニズム」の意味が「人道主義」的なものへと変化したように見えたのも、実は表面的なことにすぎず、「フマニタス」的な考え方の本質は全く変わってないのではないか、とも考えられる。(pp.108-109)
ここまでくると
話が何重にも入れ子になっていて、
実はあんまりついていけてません。
かく言う先生が発しているのが、
エクリチュールに汚染されていない、純粋な「パロール」(p.104)
であるという風には思えず。

その後、ゆとり教育の背後にある玉虫色の考え方の
分析の話になったので、
私も気をとり直しました。
ゆとり」があれば、音楽やスポーツや芸術に打ち込めるだろうし、あるいは、子供同士の遊びに楽しみを見出せるだろう。しかし、そのような目的をすべての子供が“自然と”持っているとは限らない。「自分の目的」が見出せないでいる人間に、「空白の時間を与えるから、好きなようにやれ」と言っても、何をしていいか分からないで戸惑うだけである。現在、「学力低下」論争でよく言われているように、どうしても勉強をやりたい子は、「ゆとり」の時間に塾などに通って余計に勉強し、特に目的を持っていないような子は戸惑い続けて、余計に勉強についていけなくなるだけであるのは、最初から予想できることである。(p.126)
ゆとり」の時間があれば“自然”と「生き生きした主体性」がそだってくるというのは、客観的な根拠のある話とは思えない。それは、「幸せな子供時代」の思い出がある人の自分の経験に基づいた一般化であるか、もしくは、近代的「自然人」観によって生み出されたイデオロギーである。(p.126)
こうした「生き生き」路線は、(エクリチュールによって誘導されながら)エクリチュールに汚染されていない「生き生きした言葉」を求めようとする「音声中心主義」の教育学ヴァージョンだと言えよう。(P.127)
この屈託の塊のような叫びに
同じ獣のいを感じます。
冴えない若者時代を送ってきた者どうしだから解る
うさんくささがたまりません。
自分らしくしてるのに、
生き生きしてないとか
自主性を発揮しなさいとか
言われて戸惑ってた頃のこと。
自主性を発揮しているように見える
小学校高学年女子の同級生が時々
先生のご機嫌とりのうまい子に見えたこと。
明るく元気な子どもをたくさん育てられると
信じて疑わない人を見て、
きっとこの人は
「うちにはサンタさんは来ないよ」とか
言われたことなくて、
温かく幸せな子ども時代を送ったんだろうなあ、と
つくづく思ったこと。
・・・色々と思い出してひたってました。

ただ、ルソーの教育論を暗黙の前提にする
教育学者や教育行政を批判する切れ味は
いま一つな感じもしました。
こうした“自然”主義を蔓延させるきっかけになったのは、ルソーの思想、とりわけ『エミール』で展開されている自然児教育論である。(p.132)
自然な感情を持ったままの人間が、市民として祖国に対する義務を負わされながら生きていくのは「矛盾」であるとして、二つの教育目的を同時に追求することは不可能である、とルソーは書いている。そのうえで、自分としては「家庭教育」によって「自然人」のための個別教育を探求し、それを通して「人間の条件」を明らかにしたいという立場を明言している。
 この前提を念頭におけば、『エミール』の「自然人」教育は、「社会」の中で「共に生きる」ための「生き方」を学ぶことになっている日本の「学校教育」と根本的に相容れないのは明らかだろう。しかしなから、日本の教育界には、そうした理論的な“矛盾”の部分をあえて過小評価し、かなり無理して予定調和的に理解してしまう傾向がある。「自然人」教育こそが本来の教育の在り方だが、それを現実社会の中での複雑な人間関係とどのように調和させていくかが「学校教育」の課題である、といった模範的なまとめ方になるわけである。(p.133)
「自然の秩序」「自然の規則」に逆らわず、子供が自ら育っていくのを助けていこうというルソーの原則は、ある世代の人々にとっては、「上から押しつける規範教育」としての色彩が強かった戦前の教育に取って代わる、有力なアンチテーゼに見えたようである。(pp.133-134)
『エミール』という高度に音声中心主義的な「エクリチュール」は、戦後の教育界において、「国家」対「自由な個人」という対立図式を定着させるうえで、大きな役割を果たしたと言える。(p.135)
音声中心主義を斬って捨てる勢いかと思ったら、
けっこう応援しちゃってますし。

ここまで好きなように
博識を元に論じてきて、
精神分析的な視点からの近代家族史研究家であるエリ・ザレツキーは、「自己決定」を特徴とする近代的「主体性」は、実は西欧人の「気のみじかさshort-temperedness」の現れてだ、という面白い指摘をしている。つまり、人間は様々な状況の中で、外から与えられる刺激に対してそれなりに反応しているわけだが、刺激と反応の間の時間的間隔が短ければ主体的に「決断」しているように見え、長ければ主体性がなくてぐずぐずしているように見えるわけである。(pp.199-200)
「他者との関係性についていちいち考えないで、さっさと“自己決定”するよう」強制されていると言える。(p.201)
つまるところ、結論はそこですか、という感じも。
前半も中盤も要らない、といったら言い過ぎでしょうが、
自分の考えに合うテキストを積極的に引用し、
自分の考えそのものではないかのように解説し、
結論は、一番言いたいことにつなげるための大道具、
って感じがしました。

ま、このブログの構造と一緒ですね。
失礼しました。
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